「ネットワークダイナミクス入門」のまえがき
東京都立大学 会田 雅樹
この世の中に,もし他者と一切の相互作用を行わない何らかの対象が存在しているとしたら,それは果たして実在しているといえるだろうか. 光とも相互作用しないから光を反射せず,よって目に見えない. 重力も働かないから重さもなく,当然触っても何の感触もない. そういうものが仮に存在していたとしても,存在しないことと同じではないだろうか. そう考えると,実在というのは他者との相互作用の上に成り立つ概念であることがわかる. それでは,実在している対象が持っている何らかの固有の特性についてはどうであろうか. 例えば色が赤いといった対象自身の特性も,それ以外の比較対象があって初めて認識されるものであることを考えると, やはり他者との相互関係の上に成り立つ概念である. 実在する対象自体と他者との相互関係は不可分であり,それら全体がこの世界を構成しているのである. それは,実在する対象の「個」としての特性と,他者との相互作用で生み出される「環境」との関係において, その境界が曖昧であるような世界である. このような不可分な世界全体をネットワークとして捉えると,我々の世界はネットワークそのものである.
人と人の関係を表すネットワークを社会ネットワークと呼ぶ. 近年の情報通信技術の急速な発展と普及によって,人と人のコミュニケーションが飛躍的に活性化すると共に 個人の情報発信能力の強化が進み,それによって社会ネットワークでの人々の行動が励起されて, 良くも悪くも社会的に大きな影響を与えるようになってきた. 情報通信技術の描く未来社会は,豊かで効率の良いポジティブな未来像ばかりでなく, 人民裁判まがいの個人攻撃や国際的なテロ活動など,ネガティブな側面も無視できないのである. これらのネガティブな影響を理解するためには,人の集合とそれらの相互関係という不可分な対象の ダイナミクス,つまり社会ネットワークが生み出すダイナミクスを調べることが必要なのである.
本書は,情報通信技術によって情報交換が強化された社会ネットワークを対象にして, 社会ネットワークから生み出されるダイナミクスを理解するための方法を考察するものである. 一般教養レベルの微分積分,線形代数,物理学を学んだ学部三年生程度の読者を想定し, ネットワーク上で起こる現象について具体的なイメージが掴めるように工夫しながら説明する. 当然,人の状態や人と人の相互作用という複雑で完全には分かっていない対象を扱うことになるが, ミニマルモデルという方法を用いてアプローチする点が特徴である. これは,たとえ人の相互作用の規則は完全には分かっていなかったとしても,多くの相互作用が 共通して含んでいる単純で普遍的な性質に注目したモデル化を行い,そこに現れる性質を考察するものである. これによって,従来の社会ネットワーク分析で用いられている活動の強さや重要性を表す評価指標を基礎づけ, その拡張概念を導入することに成功する. また,その評価指標が時間と共に発散するネットワーク構造を調べ,ネット炎上に代表されるユーザの活動の強さが 発散するような爆発的ダイナミクスの発生要因や対策技術を論じる. 更に,現象をモデル化するだけでなく,そこに至るまでの因果関係のモデル化を追求する点も特徴である. 興味深いことに,因果関係の追求によって導かれる社会ネットワークのダイナミクスを記述する基礎方程式が, 特殊相対性理論と量子力学を融合させた相対論的量子力学と形式的に同じになる. 人や社会のネットワークダイナミクスを扱いながら,そのモデルは自然に量子論と結びついてしまうのである. 量子論は電子や光子などのミクロな世界を記述する物理理論であるが,本書の立場で見ると,波の絡み合いから 生じる複雑な現象を因果関係を明示しながら扱うための一つの「モノの見方」という解釈が可能である.